仕事が忙しすぎてJC設定に無理が生じてきました(挨拶)
最近はぜんぜんMTGもできていなくて(やる気もあんまりない)プレリでぼちぼち遊ぶくらい。とにかく平日はクソみたいに忙しくて土日も平気で潰れたりするので、もう引退かもわからんですね。

話は変わって映画のこと。「バケモノの子」を見てきたけど、期待MAXだった予告編との落差に絶望したというお話です。公開から一週間たったのでネタバレありで。未見の人はGO BACK!



いや、細田守自体は結構好きなんですよ。「時をかける少女」とか大好きだし、「ウォーゲーム」は言わずもがな。ただ「サマーウォーズ」と「おおかみこども」は割と大嫌いでして、今回はどうなることやら…という感じで観にいったのでした。
感想としては「アチャー」という感じで、とにかく脚本がダメ。プロットの勉強を一からきっちりせい!!と声を大にして言いたくなった次第でございます。
何が駄目なんじゃい、ということをざっくり書いておきますね。

・「帝国の逆襲」がない「スターウォーズ」だった!!
何言っているのかわからないと思いますが、正直「バケモノの子」の脚本はこれに尽きます。本来三部構成でやるべき話を、無理やり二部構成でやっちゃってるんですよ。
見た人はおわかりだと思いますが、この映画は
A. ひとりぼっちの九太が熊徹と一緒に強くなる「九太編」と、
B. 大人になった九太(蓮)が楓と一緒に人間界での居場所を探す「蓮編」との二部構成になっています。
ところが、本来ならこの話は三部構成にしないとドラマにならんのですよ。
どういうことかというと。
A「九太編」…少年九太がバケモノの世界で強さを手に入れる。
B「蓮編」…強さを手に入れたはずの九太が人間界に触れ、自らの進んできた道と手に入れた強さに疑問を持つ。
C「九太=蓮編」…バケモノとしての自分と人間としての自分、両方を引き受けてケリをつける。

こんな感じ。で、今回の脚本にはこのBパートが全然足りないのです。中盤でね、修行を終えて立派になった九太がいきなり人間界に出ちゃうシーンがあるじゃないですか。普通だったらね、ここで九太が苦悩したり戸惑ったりするわけですよ。でも、この映画だとね、こいつはいきなり図書館に行って本を読み始め、一切戸惑うことなく女の子に声かけたりしているわけです。
もうね、「違うだろ!!!」と。
一応本当の父に再会したり熊徹と口論になったりとそれっぽいシーンはあるんですが、基本的には前向きにずっと勉強してるんで全然説得力がないわけです。つーかバケモノの世界と人間の世界って簡単に行き来できるのかよと。それじゃ全然二者択一にならんでしょ。適当に両方に顔でも出して生きてけばいいじゃん。
そこでぼくが思い出したのがスターウォーズ旧三部作でして。あれは、「新たなる希望」でルークがジェダイとしての強さに目覚め、「ジェダイの帰還」で戦いに勝利する話なわけですけど、じゃあ「帝国の逆襲」って何よって問題があるんですね。
「帝国の逆襲」って話としてはめちゃくちゃ暗いんですよ。ぜんぜん綺麗に終わらないから、どうしても「つなぎ」っぽいイメージが強い。でも、旧三部作を考える上でこの二作目は絶対にはずせないんです。一作目で手に入れた強さを一度否定する話なんですね、これは。
一作目を見た後で二作目を見ると、ルークがずいぶん強くなっているわけです。反乱軍の一員として、ジェダイとして父の敵であるベイダーを倒すために頑張っている。ところが強くなったはずなのにベイダーにはボコボコにされるし、父の敵であるはずのベイダーが父親だとわかって、彼のこれまでの戦いは全否定されちゃうし、最後は助けにいったはずのレイアに助けられるという情けなさ。
でも、この情けなさを一本かけてきっちり描いたおかげで、三作目が盛り上がるわけです。彼が何を乗り越えなければいけないのかということもわかるし、その先で彼が何を得るのかということもわかる。だから「ジェダイの帰還」のルークはかっこいいのであります。

・・・と、なぜかSWの話になってしまいましたが、要はちゃんとBパートで「一度落とす」作業をしとかないとこのテのドラマは盛り上がらないぞ!ということです。だってエピソード4からエピソード6へいきなり飛んだらついていけないでしょ。
「バケモノの子」の感想で、よく青年編が蛇足だったと聞きますが、そう思われてしまうのは、このエピソードが全体のなかで本来持つべき役割を果たせていないから。ぶっちゃけ、この映画青年編をまるごとカットしても成立しちゃうんですよね。青年編をやるならやるで、その役割までちゃんと意識してほしかったです(偉そうな感想)。

・割と最悪なご都合主義的エンドだった
個人的に一番オエっとなったのはこっち。一応ね、この映画はショタの成長映画なので、蓮がどうやって自分の少年時代と決別するかという話でもあるわけです。生きている以上かわいいショタも大人になってしまうわけで、「気のいいバケモノたちと修行して強くなるぜ(イェイッ」的なジュブナイル・ドリームとはどこかで別れるのが宿命というもの。ジブリ的な夢の世界とその終わりまでを描いたという点は評価したいのですが、えーとすいません、着地点が最悪すぎました。
別にね、これはどういう決断を下してもいいんですよ。「大人になんかならないぜ!」という強い決意で生きていってもいいし、「さよならネバーランド…」的なほろ苦い決断を下してもいい。
ところがこの映画は、「どっちも頂くぜ」という欲張りオチなわけです。しかもこのアクロバティックな選択が、主人公の努力でなく他人の自己犠牲によって支えられているというのが本当に無理な感じでした。
映画の最後で、熊徹がつくもがみに転生して「九太の胸の剣になる」わけですが、正直ハァ!?としか言いようがない。この選択をする必然性が何一つないんですよ。別にバケモノたちが渋谷にやってきて、みんなで九太を助けてもいいし、熊徹が体を張って九太を守ったりする展開でも全然いいじゃないですか。むしろ剣になって九太の胸に入るとかいう展開の方が意味プーですよ。
じゃあなんでわざわざこういう展開にしたかって、九太を無理なく大人にさせるため以外のなにものでもないわけです。九太が「大人になる」ためには熊徹から親離れをする必要がある。要するに、物語の都合上熊徹には死んでもらわなきゃならない。ところが、本当に死んじゃうと熊徹の犠牲の上で「大人になった」という後ろめたさが主人公の側にも、観客の側にも生じてしまうので、それを避けるためにこういう形にしているわけです。
「熊徹は俺の胸のなかで永遠に生き続ける…」という話を素でやってしまったわけですが、普通はこんなの素面じゃできませんよ。恥ずかしくて。
もっと言うと、これは「子供の心のなかで永遠にカッコいい父親として生き続けたい」という激寒な父親のエゴでもあるわけです。そういうエゴ自体が悪いとは言わんですが、それをさも美しいものであるかのように飾り立てるのはどうかと思いますね。

というかね、この映画自体が「若い頃にがむしゃらに頑張れば、その経験が糧になって圧倒的成長ができる!何が起きても大丈夫さ!」という、僕が最も嫌いなタイプの「健全な」成長観に貫かれているものでありまして。そんなくだらねーことを言うためにお前はこの映画を作ったのか???と。
人間として生きることを決めたにしても、そこで彼が何を切り捨ててしまったのか、何を失ったのかということを(ご都合主義で誤魔化さずに)ちゃんと書いてほしかったなあ。つーかそれをやらないなら青年編までやる意味ないでしょ。綺麗なだけの成長話やるんなら、おとなしく九太編で終わらせとけばいいじゃないですか。やりたいことはわかるけど、最後の最後で逃げに走っちゃう感じがすごく厭でしたね。「どれみと魔女をやめた魔女」がこれとは正反対の話だったのもあって、本当にガッカリしました。

他にも「登場人物がダラダラしゃべりすぎ!」とか「楓のキャラが薄っぺらすぎ!」とか「一郎彦がご都合主義的な悪役すぎ!」とか諸々不満点はあるのですが、このへんで。とはいっても、予告編は神だったし、映画本編も最初一時間くらいは最高だったし、映像とか美術関係はすごかったのでそれなりに楽しめはしたんですけどね。あとショタコンを殺す機械としては完璧なので、そういう人は観にいくといいんじゃないでしょうか(いまさらのフォロー)。

おしまい!

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索